諸師の部
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達磨太子 聖徳太子 空海(弘法大師) 最澄(伝教大師) 法然 親鸞
一遍 日蓮 NEW 栄西 道元  空也 良寛 貞心尼

聖徳太子 
祥琳作 【聖徳太子 ・ 南無仏太子】へ

 本名=厩戸(うまやど)皇子。575〜622。用明天皇の第2皇子。20歳で推古天皇の摂政となり、17条憲法や冠位12階を制定し、仏教による国造りをめざした。法隆寺や四天王寺などの寺院を建立、自らも勝鬘経を講演した。優れた学徳や業績から仏教各派において尊崇されている。親鸞は多くの太子和讃を書いている。
 多くの民衆にも信望を集めた結果、太子信仰が生まれ、救世観音の化身などとされたり、大工など職人の神様として太子講などが全国各地で組織された。 
 太子像は2歳「南無仏太子」、「摂政像」等もあるが、この16歳「孝養像」、が最も有名。髪は「みずら」を結い、手には柄香炉を持ち、袈裟をつけて、父の用明天皇の病気平癒を祈願している像である。     浄覚寺・等身大「孝養像」

   
空海(弘法大師) 

 奈良時代末、四国讃岐に地方豪族佐伯氏の父、阿刀氏出身の母として生まれた。子どもの頃から利発で15歳で都に上り、18歳で大学に入学するが、儒教中心の大学に飽いて、仏門に入り、山岳修行をする。
 31歳にして唐に渡り密教を学ぶ。帰国して高野山や東寺を基盤にして真言宗の開祖となり真言密教を大成する。土木社会事業や教育、文芸に大きく貢献し信仰を博した。大師信仰や様々の伝説も生まれ、「弘法も筆の誤り」などという言葉まで出来た。
 横を向いて右手に五鈷杵を持ち、左手は膝の上で数珠を持った座像であらわされることが多い。また錫杖を持ってわらじを履いた行脚僧としての立像の姿も多く作られる。
 
空海(弘法大師)

最澄(伝教大師)

 父は中国の帰化人、三津首百枝、母は藤原藤子。最澄は766年現在の滋賀県大津市で生まれ、広野と名付けられた。12歳で行表和尚について出家。20歳で東大寺戒壇院で受戒した。延暦4年に比叡山に入山し草庵を結んだ。ここで一刀三礼して彫った等身の薬師如来を祀ったのが、現根本中堂である。桓武天皇の護持僧になり、高雄山寺では法華十講を行い、延暦23年遣唐使船で入唐し、天台山のある明州へ向かった。そして仏隴寺の行満に天台教学を伝授され、龍興寺の順暁から灌頂を受けた。延暦24年に帰国し、その翌年に天台宗は国家公認された。同じ頃に帰国した空海から密教の伝授の承諾があり高雄山寺で灌頂を受けた。その後最澄は西国・東国の巡化により、法華一乗を広める事に精力を傾けた。弘仁十三年病が重くなり6月4日に57歳の生涯が終わる。
 (文 武田道慧様   参考 天台宗 大法輪閣)
最澄(伝教大師)
   
法然

 1133〜1212鎌倉初期、浄土宗の開祖。美作国(岡山)に生まれ父の非業の死に合うが遺言により復讐を諦め、剃髪し叡山に上る。源光や皇円に師事するも、天台教学や僧徒の在り方に疑問を抱き、黒谷の叡空のもとに隠棲。法然坊源空と称す。源信の『往生要集』により曇鸞・道綽・善導の浄土の教えに目を開く。43歳にして下山、東山吉水に居を移し、専修念仏に専念。1186の天台学匠顕真との大原談義や東大寺での浄土三部教の講演、関白九条兼実の帰依などいよいよ名声が広まる。しかし、教えを請い集う者は多く、あまりの繁盛と弟子の中に道を逸脱した者、また鳥羽上皇の女官が出家したことなどが相まって、既成諸宗から反感をかうことになり、念仏停止と念仏者の断罪を要求する声が高まる。結果、1207年、法然は土佐から讃岐に流罪。多くの関連した僧侶も罪科を問われた。翌年罪をゆるされたものの、病を得て1212年に没す。 法然の専修念仏は、貴賤・男女など問わず修行学問も要せず功徳も積む必要がなく、ただ阿弥陀如来の救いを信じてその名前を称えるだけでよいとするもの。愚痴無知の者まで含む、万人の救いが特色。
法然

親鸞
祥琳作 【親鸞聖人】へ
■別名 親鸞聖人 見真大師

 親鸞聖人は浄土真宗の宗祖。9歳で出家得度し比叡山に登り、真摯に仏道に励む。しかし、どうしても真実の心の安寧を得ることができず、29歳にして万人とともに救われる道を求めて比叡山を降りることになる。そして、吉水の法然上人の念仏門をたたかれ、阿弥陀如来の慈悲による他力念仏往生を確信する。念仏停止事件に連座し法然上人は土佐に、親鸞は越後に流罪となり、許された後、関東で主著の『教行信証』を著作。悪人正機説はその神髄で、弟子唯円の『歎異抄』は生き生きとした親鸞聖人の姿と思想を伝えてる。
 
親鸞聖人の場合は、他の宗祖とは異なり、美化しないリアルなお姿が像に刻まれたり、絵に描(祥琳画)かれたりしています。その方が親鸞の阿弥陀如来への強烈なあこがれと、やまない求道心を表現するためにはふさわしい表現といえるでしょう。
 ここでは、よく知られてい国宝の「鏡の御影」を参考に正面図を描きました。濃い眉毛がピンと跳ね上がり、頬骨が突き出て目は狐目、決して美男子とはいえません。しかしこの親鸞聖人の、内面を洞察する深く美しき眼差しに触れると、何人も自らの思い上がりをうち砕かれ、御仏の慈悲の深さにたちどころに誘われずにはおれません。
親鸞
   
日蓮 NEW
■別名 日蓮大菩薩  立正大師

 鎌倉時代の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。千葉県小湊で誕生、16歳で出家し是正房蓮長と名乗る。諸寺を訪ね歩き、法華経こそが釈迦の説く最高の真理であると確信し、故郷清澄山に戻る。以来「南無妙法蓮華経」の題目を唱える日々を過ごしながら、法華経の優位性を説き、他宗派を激しく非難。とりわけ念仏信仰を論難し、鎌倉で辻説法を展開する。「立正安国論」を著し法華経に帰依すべきことを説いた。さもないと天変地異だけではなく、内乱や国難が来ると預言。そういった排他的、批判的精神の為、幕府や人々の反感をかって伊豆や佐渡に流された。しかし日蓮はそれらの迫害に屈することなく天下国家の為に情熱的に布教を続けた。後、身延山に落ち着き61歳の生涯を閉じた。
  日蓮の像は座像・立像のどれも大きく目を見開いたお顔が特徴。こんな風に自信を持って生きられたらいいですね。
日蓮
  
道元

 日本曹洞宗の開祖。1200〜1253 道元は公家の子として生まれたが、14歳にして叡山の天台座主の元で得度。しかし満足せず下山、臨済宗の栄西の高弟の明全に師事し禅風を学ぶ。1223年、真実の仏法を求め、24歳にして明全と共に宋に渡り諸山を遍歴する。天童山の長翁如浄の元で勉学修行し印可を受ける。
 1227年帰国、京都建仁寺に仮寓し『普勧座禅儀』を撰述。1230年京都深草の案養院に移住し『正法眼蔵辨道話』を撰述、座禅中心の仏法を内外に宣言。1233年、深草に本格的な座禅道場・僧堂を建立し10年をかけて主著『正法眼蔵』95巻中の45巻を撰述。後、『護国正法義』を著し、1243年越前に向かう。翌年永平寺前身の大仏寺を建立。只管打座の坐禅を正行とした。
 
道元
  
良寛 

 1758〜1831(宝暦8〜天保2)江戸後期禅僧・歌人・書家。越後の名主橘屋の長男として誕生。18歳にして出家。22歳の頃岡山の円通寺へ行き、16年間修行。北陸道を通り、越後に39歳で入る。寺泊などを転々とし、国上山の五合庵に10年ほど定住し他。後に乙子神社や輪島の木村家に住んだ。
70歳にして貞心尼と出会い麗しい師弟愛がはぐくまれた。74歳にして没す。
托鉢に明け暮れ、清貧無欲。子供達と手鞠をついたりかくれんぼをしたり、また縁の下から出た竹の子が床板につかえるのを見て床板をはずしたり、天井板や屋根まではずした話など、その優しい人柄を象徴する逸話は多い。優しい人柄は人に尊敬された。
現在でも全国に多くの良寛愛好家がある。 
良寛

貞心尼 
祥琳作 【貞心尼】へ

 貞心尼(1798〜1872)

 寛政10年、長岡藩士の娘として生まれる。文化11年、小出町の医師と結婚したが、5年後に死別し実家に帰った。 
 まもなく柏崎の閻王寺で剃髪し貞心尼と称した。文政10年古志福島村の閻魔堂庵主となったが、その秋、越後の名僧・良寛を島崎に尋ね、歌道・仏道を中心に親交を密にした。良寛没後、天保6年に互いに読み交わした相聞歌を『蓮の露』としてまとめた。         
 


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