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著作権1〜HPの写真 ・ 文章〜 |
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書物やグラビア写真からの転写掲載は、出版社のみならず執筆者や写真家さらに仏像の場合は所有者(お寺)の許可も得なくてはならないので、とっても大変です。我々の趣味の領域のHPくらいは、大目に見て欲しいところですが、写真家などそれぞれの立場の方々にしてみれば、やはり著作権は大切な権利でしょう。
ある出版社の方のお話では、「無断掲載は絶対禁物で、場合によっては莫大な金額を請求されることもある」らしいのです。また「公に名前は講評できないが、京都の某寺院は非常に厳しい」と、こっそり名前を教えていただきました。
要するに写真家やお寺や、また彫刻家が、「著作権を侵害された」と思うだけで、訴訟を起こされてしまうことはいくらでもあるのです。文化庁の方は、「例えば弥勒菩薩の写真を見てイラストを描いたような場合はまあ宜しかろう!」と言うことでした。
しかし、出版社の方のお話では、「文化庁は甘い!」だそうです。現実には誰かが著作権を侵害されたと思って立腹されれば、それはしっかり問題になると言うことなのです。実際にはイラストやコピーは満ちあふれ、自由に掲載されているようにも感じますが、実はみんな許可を取ってあるのかも知れませんね。少なくても、商売関係に用いる場合のイラストなどはしっかり許可を得ていると思われます。ある時突然莫大な金額を請求されると言う大悲劇は何としても避けたいものです。どんどん厳しくなってきているようなので、関連HPを開いておられる管理人も非常に気を遣っておられるようです。 |
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著作権2〜模刻 ・ 模写〜 |
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著作権は作者の死後50年で消滅します。著作権の成立している期間内で模刻したり模写したりする場合は、原則的には原作者の許可がない場合には、公式の場においては発表出来ません。しかし、模刻をした旨を明示すれば許可をしている作家もありますので、確認する必要があります。
作品には著作権は成立しますが、「作風には成立しない」、と文化庁の方が言っておられましたので、○○流というような作風は模倣しても問題にならないようです。いったん自分自身の解釈で咀嚼し、そこに自分なりの新たな意匠を加えて発表する場合はOKだと私は思います。万一、心配な場合は、やはり直接確認するのが一番でしょうね。 |
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100円均一ショップの彫刻刀? |
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5,6種類の彫刻刀(小刀 ・ 平刀等)が店頭販売されている。作りが少々雑なため、小刀は裏刃をきちんと研ぎ直して使ったら良く切れました。平刀も全く問題なし。丸刀や三角刀もありますが、作りはかなり雑。用途によっては随分有効です。 |
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手作り彫刻刀 (ドライバー利用) |
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時計用の精密ドライバーの先端を加工して、小刀や平刀などを作ると、良く切れるそうです。目などの細かい部分の彫りに使えそう。
ジグソーの刃(モリブデン鋼が粘りもあり折れにくく一番よい)なども薄刃の彫刻刀を作る材料としては最高だそうです。ヤスリも加工すれば凄く切れ味の良い刃物が出来るとのこと。オリジナルの刃物を工夫して作るのも楽しいことです。 |
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仏師になる為の資格はいるの? (メールでいただいた質問より) |
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Q 仏師ってなんですか?その人たちをだれが「仏師」と認めたのですか。
それとも自称ですか? だれでも「仏師」と名乗れるのですか。
A 「自称」です。私もそうです。自分が仏師だと思えば仏師です
検定や資格審査などはありません。ただ、他人が認めるかどうかは別問題です。
Q 仏具店で売っている中国・朝鮮・台湾・ベトナム・タイなどの人や、
日本のそれに類する仏像制作家は、「仏師」と言うのでしょうか。
A 外国から多くの仏像が輸入されていますが、それらの工人を仏師と言うかどうかは難しいところ。
外国に住んでいる工人については恐らく仏師とは言わないと思います。言う必要が無いからです。
日本のある程度のレベルの仏像作家なら仏師という場合は多いと思います。
付加価値をつけるために言う必要があるからです。
低価格の粗悪品の場合は、言う必要がないから、言わないと思います。
Q 仏師でも、注文を受けないで自分で作った作品を提供するというスタイルをとっている人も
いるだろうと思います。オーダーメイドではないが、自分の作品が気に入ったら買ってくれ、という人も
いそうですが、これも仏師と言えるの?
A 基本的には、仏像の場合は、仏教信仰の対象・よすが、ですから他の品物とは違い
本来は造り貯め等しないものだろうと思います。
「願主」の願いに応じて造るものだと思います。
しかし現実には例外も多くあります。
※私見 仏師とは (私の仏師に対する主観的イメージ、自戒を込めて)
1、自身も篤き仏教信者であり、仏教徒としての生活をしている人。
2、如来から祖師までオールラウンドの仕事がこなせる技量がある人。
3、品位ある仏像を造る人。
※(ついでに) 大仏師とは
4、(小)仏師集団を抱え、それらを技術的・人格的に統轄できる器量をもっていること。
5、大寺院に、主要なる仏像を納めた結果、管長や住職から賜るもので、「自称」はほとんどありません。
例えば「東大寺大仏師○○」 というように、東大寺の主要なる仏像を造像した結果、、功績により、
そのお寺から賜ります。
6、現在も後世も、大きな評価を博する、仏教精神に根ざした仏像を造れる人。 |
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心霊現象?それとも・・・・ (掲示板より) |
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昔、京都で彫刻を習っていた頃の話です。誰かが師匠の作品を撮影したものの中に、稲光のような閃光が写真に走っていたものがあり、実に不可思議なことだといってパネルにして飾ってあったのです。それを見た私は「何かの間違いだ!!」と全く本気にしませんでした。そのような現象に対してはかなり冷めた目を私は持っていたのです。
それから10年ほど後、新潟のアトリエで私の作品(阿弥陀如来)を自分で撮影したら、
なんと師匠のところで見たパネルの写真とは比べものにならないほどのはっきりした杉の葉のような閃光・稲光が放射状に写し出されている写真が撮れたのです。
写真屋さんに聞いても理由が全く分かりません。
私の驚きはただごとではありませんでした。「超自然現象を呼び起こしたともなれば、私の作品もまんざらではないのかな?」と、自分の心も180度の変わり様です。それどころかまんざらでもない思いにひたりました。
果ては、「一流の仏師になった証拠!」とおだてる人もいました。
人間とは悲しい生き物で、そうこう言われている内に、いつしかそんな気分になったのです。
ところが、別の写真屋さんに話してみたところ、
「それは恐らく静電気の悪戯に間違いないでしょう!
暗室で6×6版や6×4,5のフィルムを扱っているときに、時たまチカッと光ることがあります・・・・云々。」
その言葉を聞いて一気に謎が判明。
確かにそのとき私の使用したフィルムは6×4,5。私も、静電気に違いない!と一人深く納得しました。
かくして実に哀れな有頂天人間は、幸いにも自分自身を取り戻したのでした。
勿論、写真もネガもそのときにサッパリと捨ててしまいました。
実に滑稽な話です。
他人のことは冷静に見られるが、自分のこととなると全く常軌を逸してしまうものですね。
仏像は仏教に誘われる精神的な「よすが」になれば・・・と思っています。
ちなみに、浄土真宗では絵像のご本尊の裏に「方便法身の尊像」と明記してあり、ミステリアスな現象はほとんど認めておりません。
奇瑞・奇跡の類は皆無に近いものですから、ちょっぴり文学的には物足りない感じがします。
しかし、この怠け者のの自分が見事に救われてゆくのだとしたら、それこそ奇跡以外のなにものでもないでしょうね。
信仰心があるとそのように見てしまう、ということはあろうと思います。
私もあの狐目の不男の親鸞がとっても素敵に見えるのですから(笑)
誰よりも自分の子供が可愛く見えるのと似ているかもしれませんね。
釈尊伝などで、釈迦が奇跡を起こして仏道に誘われたことが知られていますが、釈尊に救われた大いなる喜びを比喩的・象徴的・誇張表現で表したものと思います。
仏像そのものも・その誇張表現の一種かもしれませんね。
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仏像の彩色や修復のスタンス (メールでいただいた質問より) NEW |
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Q 仏像の彩色について質問です
1 仏画と仏像の彩色は共通するものはありますでしょうか?
2 仏像の修復時に、塗直しを行うことは文化的な価値を壊す行為だというような御意見があり、
彩色が全く評価されていないように感じます。(かなり攻撃的に言及している方もいるようです)
素人の発想だと、仏像の彩色(金箔も含めて)は湿気や汚れなどから木地を保護する役目のような
気がしますので必要な措置だと思いますし、何よりも、仏像本来のお姿にするものとして
重要なものだと考えていますが・・・・?
A
1 仏画の技法と仏像の彩色は絵の具の使い方等の点で大いに共通点があると思います。
勉強をなさって腕を磨かれるのがよろしいかと。
2 修復彩色をされる場合、ア・新しく塗り直す場合と、イ・古色(現状保存)をする場合の2種類があります。
どちらも高度な技術が要求され、うっかり取り組むと(とりわけ前者の場合)「破壊者」と言われます。
【独断的私見】
昔、広隆寺の弥勒菩薩像の指にファンと称する学生が噛みついて破壊してしまいました。
勿論、慎重に復旧された訳で、日本中がほっと安心しました。日本の国宝ですから勝手に
ぴかぴかに塗り直して修復することは許されません。文化的芸術的、そして歴史的価値があるばかりではなく
宗教的価値もあるのです。
ゆえに、自分の寺の本尊(阿弥陀如来)を加刀修複をしたときに(現状保存以外の行為)は、
文化・芸術・歴史・宗教への冒涜的行為以外の何者でもない!それでも僧侶か?と、批判されました。
タイの国の仏教徒はなぜ、仏像に次々と金箔を貼って供養するのでしょうか。
タイの人々は信仰心がないからそのような破壊行為(?)をするのでしょうか
教典の中には『燦然と金色に輝く御仏』と説かれています。また御仏の色合いが明確に書かれている
お経も少なくありません。「煤けた像は侘びさびが感じられてすばらしい、オリジナルを死守せよ」と書か
れている経を見たことがありません。諸行無常の中でキラキラと不偏なる光りを放つのが御仏ではありませんか?
どなたか、私を情念的にではなく、教学的に論破してください。
侘び寂びと称して人間の好みを御仏に当てはめ、すすや塵を塗って「汚す」のは、むしろ
自分の愛妻の顔に煤を塗るよりも酷い行為だと思います。(破壊的行為という意見に対する反論)
要するに仏教(信仰)をどのようにとらえるか、当にスタンスの問題です。
愛着的芸術的文化遺産、祈りの歴史を身近にとらえるなら、
古色蒼然とした像の中に至上の価値を見いだせばよろしいかと。
自分の信仰する阿弥陀如来が煤けてくれば、燦然とした光りを放つように手直しをしたいと思います。
勿論、劣悪な技術での修復は、評論家から 『破壊行為・・・』という誹りを甘んじて受けねばなりません・・・
技術的指導もお受けします。
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